古舘伊知郎の『古舘トーキングヒストリー』
2018年1月6日放送は『本能寺の変』完全実況!

本能寺の変の真相とは?内容

 

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本能寺の変を古舘伊知郎と磯田道史が解説

解説は磯田道史さん

 

本能寺の変2日前

明智光秀は信長の改革は早急過ぎると懸念していた。

 

ついに光秀は信長を討つと決意。
しかし多くの難関がありました。

 

明智光秀がいた亀山城には、光秀軍1万3000の兵がいました。

毛利攻めに行く準備をしていた兵だったのです。

 

 

 

信長のお供の数が少なすぎたのも本能寺の変が成功した理由

思ったらすぐ行動するタイプだった。20~30人の小姓だった。

 

信長は軽々しく一人で自由に動き回ることが好きだった。

沢山人を伴っているのが嫌いだった。

直前にあった武田との戦になると3~4万の軍を率いていたが、戦が終わって充電期間だったので兵がいなかった。

 

信長は公家をどう思っていたか?

天皇の使者である公家さえも利用しようとした。
貴種(きしゅ)なので重んじないといけない。
しかし信長は使いみちがあると思っていた。
近衛家が天皇の親戚。
自分にとって使えると思った人を見極めていた。とても合理的なひとだった。

 

本能寺の変は信長にも原因があった。
当然たくさんの恨みをかっていた。

 

楽市楽座

比叡山焼き討ち

 

信長はお金集めが上手かった。農民が自由にお金を集められるシステムを作った。

 

比叡山焼き討ちは東京大学を10個破壊したと同じ。
ずっと蓄積されてきた知の源泉みたいな場所を焼いた。

 

平清盛から信長は比叡山を焼き討ちをした。
謀反人は信長だった。
あまりにもやりすぎだった。

それぐらい乱暴だった。しかしそれぐらいないとこの島国は変えられなかったのかもしれない。

 

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京都 本能寺

1日前

20Km離れた光秀のいる亀山城

光秀の参謀『斎藤利三』は江戸時代の家光の乳母・春日局のお父さん。

一方、本能寺では茶会が行われていました。

自慢の名物茶器を披露すべく茶会を行っていたのです。

武功を立てた家臣に茶器を与えていました。

 

ついに信長を討つことを決意します。

 

家臣たちにどう伝えるか?光秀は考えます。

 

仏像の後ろにこそ見えざる世界があると考える光秀と、仏像はただの金属であると考えた信長。

 

藤田

明智

 

大事な話がある。
上様は立派なお方じゃ。
わしは同じ志で手足となって尽くしてきた。

光秀は今日にて、信長公を撃つ決意にある。

 

わしはこの1万3000の兵を毛利攻めではなく、京に使わしたい。

 

家康は堺見物を決め込んでいた。
羽柴秀吉は毛利と戦をしていた。

利光、命を落として殿を止めなければなりませぬ。

 

急な坂を降りれば転がり落ちるものがいる。
登った先に

まずは兵たちに

信長に閲兵して京に行く

 

一切他言してはならぬ。

真に恐ろしいのは臆病すぎるほどの用意周到さだ。念には念を入れなければならぬ。

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裏切り者を出さないために、どうしたか?

 

亀山城 光秀軍出陣

 

夜中の出陣を不審に思った足軽たち

 

「上様(信長)に出兵前に閲兵するのじゃ」と説明した。

つまり、毛利攻めにいく前に、その姿(明智軍勢)を信長様に披露しようと説明した。

 

閲兵式とは?
信長は普段さぼっている部下を閲兵式で見つけていた。
武装のための給料を渡しているので、いい武具を着て、整えているか?などチェックした。

街ごとに木戸が作られていた。

 

秀吉の援軍に行く前に信長様に披露するのじゃと話した。

 

それでも裏切り者が出るのを心配した光秀は、家臣に「これより先 隊を離れるものがあったら切れ」と光秀言った。

季節は冬。

信長は前日の夜

茶会の後、親しいものにいつになく優しい言葉をかけていたといいます。

 

「信忠、すべてを譲ることにした。頼むぞ。」

妙覚寺に息子 信忠は宿をとっていた。

 

光秀は大軍を率いて京の本能寺へ向かう

光秀の長い隊列です。先頭から最後尾までおよそ9km。

ここで織田信長を撃つことを家臣一同に打ち明ける。

良き働きには遺族年金の保証をした。
明日からはこの光秀が天下人じゃ!

 

早朝に大規模な行軍が京都へ向かう。

東寺あたりにいた農民が20~30人切り捨てたのです。

 

朝4:30

 

実は夜明けだったのです。

このあといよいよ明智光秀軍が本能寺へ。

 

光秀はなぜ信長を撃ったのか?

 

信長のいじめに耐えられず撃ったのか?
明智光秀もある程度自分が出世する間には、加担してきた。

恐怖があったのではないか。

光秀の娘 玉(ガラシャ)が嫁いだ細川家の古文書にも記録があり
信長はいろいろ掘り起こす人だったことがうかがえる。

四国の長宗我部氏と交渉するも、信長は攻めろと言われたり。
光秀は気まぐれな信長に振り回されていた。

『川角太閤記』
生存者が聞いた話を記録してある書物

自分が殺されることもある。
明智光秀の家臣や親族一同などまわりが全部殺されるかもしれない。
殺られるかもしれないから殺ってしまおう。

そう思ったんではないか。

 

明智光秀軍が本能寺に到着

光秀本陣 200M離れた場所
三条堀川

早朝だったが起きていた信長

 

今日から毛利攻めにいくために上賀茂神社に必勝祈願に行く予定だったのです。

 

とにかく静かに本能寺に近づく光秀軍。

 

本能寺の門は開いていたのです。

織田家 家臣が光秀軍の侵入を止める。

 

織田家家臣「狼藉は許さんぞ!」

そしてついに武力衝突が始まった。

 

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信長 本能寺の変にてどう戦ったのか?

 

離れた場所にいた信長が騒ぎに気づいた。

 

森蘭丸「殿!!!謀反にございます。旗印は・・・桔梗の紋!」

信長「光秀だと・・・是非に及ばず」

これは有名な信長の言葉です。

 

 

信長が助かるには馬にのって逃亡するしかない。

馬屋(厩)に駆け込みたい信長。

森蘭丸も手助けします。

それを阻止せんと、馬屋の前に立ちはだかります。

目前の敵をうち払うのみ。

 

 

もはや馬での逃走は無理と思った信長。

頼みの綱は、近くにいる息子 信忠の援軍。

しかし600mほど離れた妙覚寺にいた信忠はまだ寝ていたのです。

 

光秀「御首(みしるし)をかならず取り上げるのじゃ」

 

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信長が言った「是非に及ばす」とは?

これは戦国武将がもつ共通認識にあったのです。

刹那主義にあった。

明日のことはわからないので今を楽しむという考え方。

『仕方がないな』という気持ちだったんじゃないか?

人生は夢まぼろしだと思っている信長は、最後を楽しもうと、喜々として捉えようとしたのではないか。

 

信長の死因は?

決定的にもうだめだと思った信長

天野源右衛門という槍の名手が致命傷を信長に与えていたんじゃないか?と思われる。

それで部屋の奥に入って自害した?

槍をもちしばらく戦ったあと銃で撃たれた。

信長はつきあった女子供を裏から逃した。「光秀は女子供は切らぬ」

 

信長に致命傷を与えたのは・・・
障子ごしに天野源右衛門によって背中を一突きにされたこと。

そして信長は奥へ行った。

信長が自分で火を放っていた。

そして、切腹。

人生50年の舞はやっていない。

 

森3兄弟は連携して遺体を残さないように焼き尽くせるように、時間稼ぎして敵の侵入を防いだんじゃないか。

信長公、本能寺にて死去。

して御首は火の中に

光秀「ならば死んだかどうかわからぬではないか?なんとしても見つけよ」

本能寺を炎が包んでいる

 

明智光秀はその11日後、秀吉軍に撃たれました。三日天下と言われた。

 

光秀がなぜ信長の首にこだわったのかという理由は、はっきり信長の御首を世間に見せつけないと、権力が確立したとしらしめられない。

それを阻止した信長は最後の作戦だったといえる。

光秀がもし首をとっていたら、他の軍も光秀軍に参加していたので、光秀は秀吉に勝っていた可能性が高い。

信長の御首をとっていたら・・・

 

信長の息子 信忠はその後

息子が信長と同じ日に殺されたのです。

  1. 明智光秀と戦う
  2. ひたすら逃げる
  3. 立てこもる

2番の逃げるができずに二条城に立てこもったので死ぬことになった。

 

徳川家康が黒幕だった?秀吉?

 

定説の一つに、家康は全部知っていたという説がある。

一番得した男は家康。

武田の土地を貰えるので。でも違うようだ。

 

しかし秀吉も怪しい。この人が最終的に得した人だから。

光秀軍は秀吉軍に合流しようとしていた。密接に連携していた可能性はあった。

知っていた可能性はある。

本当は?????

 

「本能寺の変」は変だ! 明智光秀の子孫による歴史捜査授業 [ 明智憲三郎 ]