志村けんの祖先・父・母のルーツがすごい!武田信玄との関係も

 

ファミリーヒストリー志村けんさん内容

2018年5月28日(月)

珍しくジャケット姿の志村けんさん。
内容は全く知らないという志村けんさん。

 

(以下 志村けん)

東京都北西部にある東村山市。

 

志村康徳(やすのり) 本名

 

志村けんファミリーヒストリー内容

実家を尋ねる

3歳年上の兄

志村知之さんが語られました。

東村山区役所にずっと務めてきたお兄さん。

 

志村家の祖先は武田信玄と関係が

戦国時代のこと

志村家のルーツは山梨の出だったという。

毎年の法事では

本家29代目の志村さん

 

武田家の甲府に多い苗字である。

言い伝えであるが。

 

武田家と志村家の関係はあったのか?

 

歴史学者の平山優さんが教えてくれた。

 

史料
武田が滅ぼした

徳川の家臣となった中に志村という姓があった。

 

武蔵の国
東京のゆかりの深い『志村又左右門』という人物。

やまがたまさかげ

長篠の戦いで織田軍と決戦。

山縣はここで戦死しました。

 

山縣の首を必死で持ち帰ったのが志村でした。

 

徳川に忠誠を誓います。

 

甲州道中(甲州街道)
ここを守るのが『志村又左右門』たちだった。

ここに東村山市がある。

 

北条方についた
関東へ向かった志村たちが志村けんのルーツなのか?

 

志村本家が寄贈した古い史料がありました。

 

名主 作右衛門
この人物がご先祖だったと言われます。

年貢を集める仕事。

ある程度の実力がなければ名主にはなれなかった。
ということは志村は名のある人物がルーツだったのは確か。

 

武田信玄に仕えていた人物が志村けんの祖先だった可能性は高い。

 

志村5代前は志村権兵衛

 

4代前は志村六太郎

 

丸山了一さんが
六太郎奉納画が熊野神社にありました。

 

車大工だった。

 

手に職をつけたいと思ったのです。荷車を作る職人でした。
とても重宝されて売れたそうです。

 

長男の志村榮三郎さん。
車大工はつがず、農業を行いました。

 

昭和農業危機により農業が苦しくなりました。
そのため、多くの農家が先祖の土地を手放しました。

 

 

志村けんの父のルーツ

志村憲司さん

8人兄弟
自分が長男で下は
すべて妹だった。

 

勉強をして常に成績トップ。
豊島師範学校へ競争率を突破して入学しました。

 

現在の東京学芸大学です。

 

当時の父 憲司さんの記録がありました。

 

柔道部に所属していました。
柔道の名門校でもありました。
体を鍛える目的もありました。

 

S13年全国中等柔道大会の記録があり
なんとお父さんが決勝戦まで勝ち抜いていたのです。

 

主将を務めていました。学業もトップクラスでした。
優秀だけど家庭の事情で大学へ行けない人が師範学校へ集まりました。
のちにその人達は教員へつくという流れがありました。

 

父も教師へ無事になりました。
しかし兵役の務めもありましたが、憲司は兵役に行くことはありませんでした。

その時21歳です。

 

ひいおじいちゃんが車大工だったていうのは聞いたことがあった。

 

お父さんはすごく勉強と柔道の成績がいい人だったのです。

 

東村山にある正福寺地蔵堂

浦安の舞(年に一回踊られる)
初代踊り子だったのが志村けんの母です。

 



志村けんの母のルーツ

 

和子

野口町
志村家とは3キロ離れていました。

 

母の実家も歴史ある家でした。

1754年の年貢取り立ての記録がありました。
母の実家も名主だったのです。

 

大正八年小山家の分家

尋常小学校を卒業後家事手伝いをしていました。
活発な女性でした。

24歳のとき、運命の出会い。

4歳年上の兄が結婚したのは 志村トリさん

志村憲司の妹です。

 

二人は恋愛結婚。
昭和20年二人は結婚。

 

戦争が激化する中で国からどんぐりを拾うように支持。

小山正雄さん(けんのいとこ)
時間中にどんぐりを拾いに行っていた。

 

どんぐりを拾おうと教師として責任を果たそうとします。
父はすごく厳しい先生でした。

昭和20年8月15日終戦

 

戦後の教育現場は大きな変革がもらたされます。

教員免許が問題となったのです。
戦前の教員免許は師範学校だったが、それが軍国主義にあたるとされ、大学卒業の教師が主流として認められる流れになったのです。

GHQが主導した教員の資格にまた大学へ通います。
その頃、子供が2人もういました。

教師をあきらめなかったのです。

 

勉強ができる子とできない子と差別をしなかったのが志村先生だったと教え子の話。

一番を目指してあきらめるな
努力の大切さを生徒に説いていきました。

 

卒業式には「ころんでもおきて」
志村と書かれたものを送っていました。

 

 

志村けんの生い立ちと家族

昭和25年

三男 康徳(やすのり)
徳川家康のように立派な人になってほしいと父がつけました。
それが志村けん。

 

ラジオで夕方の番組があるとけんだけ遊びをやめてラジオの前に行くような子供だった。

 

落語や漫談が大好き。
笑顔のたえない少年でした。

 

父はキャリアアップを目指していました。
公務主任に就任。

講道館柔道5段に。
翌年は教頭に就任。

 

自宅で仕事をすることもしばしば。
校長先生を目指していました。

 

暗くて暗くて冗談も言わない父だった。
一緒に和気あいあいと話した記憶はない。

 

いつも難しい顔をした怖い父。
子どもたちの共通認識でした。

 

父以外でテレビを見ていたら父が入ってきました。
場の空気が凍ります。
雲の上の

 

意外にもひっくり返って笑っていた父親にみんなびっくり!!
初めてお笑いを見て、父が笑ったので、お笑いってすごいな~と思った志村けん。

この日以来、学校へ行ってお笑いをするように。

志村けんの家の前でバイク事故が。
その事故は父 憲司だったのです。

だいぶ勢いで飛ばされたようで、所沢の病院に何日か入院しました。
全身打撲と骨折でした。

 

柔道で鍛えた体が命を救いました。
事故から3年後、異変が。

中学生の志村けんが部屋に入ったら、「あの、どちら様ですか?」「飯食ったか?」というように。

 

記憶をする脳の部分に血が固まっていたので障害がでたのです。
47歳で教員も休職することに。
事故の後遺症だったのです。

 

前が厳格で強いイメージが強かっただけに、家族も衝撃を

父は入退院を繰り返すように。

母が家族を支えました。

 

母はおならをしてもずっと人のせいにするような明るい人だった。
志村サヨ子さん(長男の妻)
「本当におもしろい母でしたよ」と。

 

早川由江さん
ビートルズの日本公演のチケットがあたったのです。

あたった時点で大好きな志村けんにあげようと思ったそう。

昭和41年9月2日武道館
ビートルズのコンサート
志村けんは肌で雰囲気を感じ取ったのです。

 

高校3年生の時にドリフターズに入りたいと行動を起こします。
前日の前座がドリフターズだったのです。

 

なんのつてもなくいかりや長介さんの自宅マンションの前をうろうろした。
そして訴えると、一週間して後楽園に来いと言われたのです。

 

この頃の父は街を徘徊するようになっていたので、心配でした。
3番目のけんは母もかわいかった。

やりたいことやったらいいと家族は反対しませんでした。
父には何も告げず家をでました。

 

昭和42年ドリフターズの新番組

芸名は父の名前からとって『けん』に。

 

空腹を満たすためにメンバーの残したラーメンを食べていました。

地方巡業では列車で楽器の見張り役をしました。
ようするに寝るなってことです。

『今に見てろ』そう曇りガラスに書いたそうです。

昭和48年父がなくなりました。
兼がドリフターズに入ったのは最期まで理解しなかったそうです。

 

荒井注の後継に指名されたのが『志村けん』でした。

最初はブーイングが起こっていました。
お前は荒井注じゃない
走り回るだけの新人
観客の反応は冷たかったのです。

すわ親時さん
悩んでましたね
荒井注さんのイメージが強かったから、もがけばもがくほど深みにハマっていった。

 

クラブに連れて行ったいとこは志村けんがこういったそうです。
「ここより赤ちょうちんがいいんだよな、勉強にならねえもん」

 

とにかく人間観察がすごい。
いつも喧嘩しているお店があった。
あばあちゃんが腰が曲がって。

 

その人間観察が笑いにつながったのです。

 

東村山音頭。

子供の頃から聞いていた曲。
けんはその曲で勝負に出ます。

いかりや長介リーダーも賛同。

『東村山音頭』を披露します。
昭和51年

建設業を営む親戚は、横浜でけんの唄(東村山音頭)を歌っていた子供を見てびっくりしたそうです。子どもたちが大反響だったのです。

観光バスが志村けんの生家に来たり。
それからは志村家大騒動。
志村けんが人気者になったからです。

 

母和子さんはファンを家に入れてお茶を出したりしたこともあったそうです。

 

母の遺品。

スクラップブックがありました。
ドリフターズデビュー当時からの厖大なスクラップでした。

 

切り抜きは志村けんがスターになった後も続いていました。

 

すごいですね。
やっぱり親ですね。と兄。

 

2015年母 和子さんはなくなります。
94歳。

 

志村けん「(母は)自分で言ってましたもんね。私が一番ファンだって」

 

今日のを見て、ちゃんと経緯があって今自分が生きているということがわかったのです。

いかりや長介さんの命日。
二人は不仲説が囁かれたこともありました。

 

8時だよ全員集合のあとは別々の道を歩んできました。

頸部リンパ節がんが発覚。
周囲が驚く行動をとったのです。

自分でチケットをとって、観客の一人として志村けんの舞台を見に行っていたのです。

息子「自分の『人生の行脚をしていたんじゃないかと思うんですよね」

 

親父が亡くなる前に走り書きしていたメモ。
その中の一枚に、
オッス
8時だよ

 

加藤がえらい
志村がえらい

やっぱり戦友意識があるんじゃないですかね。

 

2004年いかりや長介さん亡くなられました。72歳。

 

東京葛飾区の安谷屋道場
実は父 憲司さんの同期が作った道場でした。

とにかく努力する人だったと語られます。

 

笑福亭鶴瓶さんが志村家との思い出を語りました。